大体川崎大師のお参りの人というのは12月は30日までと、新年は1日から参拝の人が多くなるのですが、31日の大晦日の朝というのは実は人が少なくて落ち着いて参拝するのには狙い目ですので、ここ数年は毎年この日の朝一番に参拝していたのでした。
別に単に人が少ないからというものぐさな理由だけでこの日に参拝していたというわけではないのですが、しかしそれはさて置いてもまず朝一番というのははずせないところです。
時間が遅くなればなるほど正式参拝でお参りしたときに、ご祭神の御神徳で邪気を焼ききっていただいた後にあぶり出てきたものがそこに置かれていきますので、最低でも午前中のうちに参拝するというのがせっかく行くのであればよろしいやり方になります。
ちょっと前の話になりますが、この12月の吉日には天津神明宮にお水取りに行ってきました。
その方位はもう来年は凶方位でいけないので、今回が今年は最後の機会ということでかなりの人がお水取りに来て並んでいました。
その他にも源泉かけ流しの温泉2箇所に立ち寄って、じっくりと温泉につかって木・火・土・金・水の気を吸収してきました。
え、どこに行ってきたかですって?
ここを通っていってきたといえば、言葉よりも雄弁な説明になると思いますので掲載致します。ここはほたるがキレイなところらしいですね。
数年がかりで取って行って完成させるべき方位の布陣を考えた場合、今年はこの吉方位しかないなというのが結論でしたので、休みの関係で近場にしかいけないということはあったのですが、今年はひたすらこの方位に行っていたところでした。
来年は来年でまた自分の中でのテーマの方位は、本命星と月命星・日命星から見てもう決まっていてさらに再来年のも含めて取り方まで決めているのですが、そこまで行くと自分の人生の中で完全な最大吉方位でのひとつの方位の布陣が完成するわけです。
色々な方の鑑定を通して、引越しが人生を導く骨組みになっていると感じたように、こういった布陣もまた引越しと同じかそれ以上に人生をより良いものにしていくバックボーンになるわけですから、このように人様の幸せに貢献させていただきながら自分自身の人生に対しても計画性を持って土台を作っていける幸せを、最近になるにつれて毎朝起きたときとかふとした時などに、特にしみじみと感じてきておりました。
自分の人生を手相や生年月日で見ても、元々はこうした計画性を持って善徳を蓄積して歩んでいくようには命運的には設定されていなくて、どちらかというとアリとキリギリスで言えばキリギリスのように享楽的で将来のことを考えない人生を歩いていったであろうことを考えれば、今のように占い鑑定や社会奉仕、はからずも目前の苦しみから逃れるために運命学を学んだことにより、人様の幸せに尽くさせていただくことが結局は自分自身の幸せにつながるということが分かった上で全力で一生懸命、それでも人様から見ればささやかではありますが、そういった本来であれば自分の中に備わっていなかった要素を通して現在のような人生を歩ませていただいている幸せを、本当に最近になるにつれて日々かみ締めておりました。
来年もそれを、さらに焦らずにじっくりと進めていって己の力を錬って行きたいと思います。
最後にこれは、毎年ブログの中で年末はちょっと砕けた軽妙な、ドラマや映画などのエンターテイメントネタを1年のお疲れ様的な感じで載せていたので今年も書きたいと思っていたものとして、12月中にぜひ書きたいと思っていたのについに最終日にまで持ち越されてしまったネタとしましては「家政婦のミタ」がありました。これが今年、視聴率的には大ヒットを飛ばしましたね。
ドラマ的には、昔で言うと2枚目の田村正和よりも3枚目に転じた古畑任三郎の方が見ていて面白くて受けたように、今回も完全なる正義の味方というよりはいわゆる悪を持って善をなす的な、悪ではないにしても言われたら人殺しもしかねないような不気味な印象も醸し出すミタが業務をこなしていくうちに、みんなの持っていた問題があぶりだされて混乱した後にそれらが最終的には吉になっていく、忘れていた家族の絆を取り戻して幸せになろうと全員で一致団結して向かっていくように家庭が結束していくというドラマでした。
これを気学的に例えればどうなるかと言いますと、八白土星ないしは艮宮の働きにより混乱と変化の後に家庭運、家族運、親戚運が良くなっていく働きと同じ現象が出てきたのではないかと感じていました。ストーリー的にはそう思いませんでしたか?
ドラマの中の話で言えば、主人公一家のだんなさんは奥さんが亡くなって家政婦のミタさんが来る前に、家族みんなないしは自分ひとりで、八白土星ないしは艮宮の方位へ吉方位旅行か出張に行っていたのではないかと私はこのドラマを見ながら感じていました。つまり例えて言いますと、八白土星の吉方位効果はまさしくこのような形を取って出てくるので、人によっては年を取ってからは東北の吉方位は採ってはいけないと言う人も出てくるわけです。
しかし吉方位で行けばたとえ一白水星であっても六白金星でも、または八白土星であっても「最終的には」吉となりますから、多少出てくるあくなどはそれこそ川崎大師に行って厄を祓って頂きながら雄々しく前向きに吉方位を取って行くという姿勢が望ましいのではないかと、私は考えているわけです。
似たような話で言いますと、ちょっと前で言えばクエンティン・タランティーノという人が監督して作った「パルプフィクション」という風変わりな映画がありましたが、それと似たような感じを受けました。テーマ音楽が特徴的で、どなたも一回は耳にしたことがあるのではないかと思います。
ギャングとかチンピラとかが出てくる、一見するとまったくくだらない話が細かくシャッフルされて続いた後で、しかしそれらを最終的に見終わった後には優しさとか愛の何たるか、そういたものの大切さがしみじみと感じられてくるという、それまであまり見たことのないタイプの映画でした。
もし神様や創造主・造物主といわれる存在がいるとすれば、なぜこのような楽しみや苦しみ、善や悪を作られたのかといえば、あたかも人が食べ物を吸収し排泄する過程でエネルギーを得るがごとくに、色々な善や悪といわれるものや楽しいことや苦しいことを経験する過程で得られるその経験の中からの魂の糧という、内面が進歩向上を得るためのすべては方便、つまりはこの地球は効率的な魂の進歩向上のための玉石混交な道場ということもありえるのではないかと感じておりました。
今朝の川崎大師の、護摩祈祷の前の約10分間の説法の中でもちょうど同じことを言っており、仏教では結局良いことをして悪いことをしないというのが究極の言いたいことで、では良 いことと悪いことは何かというと、良い事というのは人が幸せになったり喜ぶこと、悪いことは人を苦しめたり不幸にすることだと簡潔な言い方をしていましたが、まさしく簡単に言えばそれに尽きると感じました。
さらに言えば幸せにも色々あり、身近な視点での幸せ 、中くらいの視点からの幸せ 、大局的視点から見た幸せ など色々なものの見方や考え方がありこれらが時にはバッティングするので一概にはこれ、と一言で切って捨てることが出来ないのが世の中なので難しいところなのですが、それはそれでまた別な機会に譲りたいと思います。
というようなことを感じた、今朝の1年の区切りの参拝となりました。
世の中というのはまさに玉石混交、何をやっても誤解されないということはなかなかありませんし、自分自身がまず絶対に正しいということもありませんから、まずはとりあえず自分が信じたことを恐れずにやってみて、その中で誤っていると感じたことはまさに「君子、過ちて改むるに憚ること勿かれ(あやまちてあらたむるにはばかることなかれ)」というように、気づいたらでいいので自分の信じるように改めていくという姿勢で良いのではないかと思います。
まずはやらないよりはやるのが大事、その上で改めるものは改めていけばいい。
そのような姿勢で、私もまた2012年からは新しいサイクルに入りますので新しい種を引き出しに入れていけるように過ごして生きたいなとあらためて考えておりました。
あなたもきっと、年が改まるにつれて1年を振り返りつつ、また思いを新たにすることもあるかと思います。
世の中を見れば、人類の厄年的働きが節目節目でやってきつつある近年ではありますが、こうして無事に過ごせていることを感謝しつつ自分には何が出来るのかを考えながら、また2012年も頑張って行きたいと思います。
2011年、本当にありがとうございました。良いお年をお迎えください。
2012年もどうぞよろしくお願い申し上げます。